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【池谷田鶴子先生追悼特集】日本僑報電子週刊 第1475号 2021年9月8日(水)発行

日本僑報社 中日桥段 2021-09-08

日本僑報電子週刊 第1475号 2021年9月8日(水)発行

http://jp.duan.jp 編集発行:段躍中(info@duan.jp)


 

■編者より 

 

 順天堂大学付属病院の池谷田鶴子先生の告別式が9月6日昼、東京国立市で行われました。池谷医師は父娘二代にわたり、本を媒介に日本僑報社と縁を結んだ。

父の稗田憲太郎先生は1945年に八路軍に参加し、胡耀邦さんの命の恩人だった。日本僑報社が出版した『新中国に貢献した日本人』には、この貴重な物語が記されている。当時、日本の副総理だった後藤田正晴先生が推薦書を書いた。

娘の順天堂大学医師の池谷医師は、中日医学交流に多くの貢献をし、『70人の日本人の友人が見た新中国70年の発展と変化』の共同著者として、池谷医師は70年前の天安門開国式典の目撃など永遠に忘れられない出来事を回想している。

池谷医師は母親が小児科医だったため、生まれたときから北京の家政婦に育てられ、幼い頃には毛沢東の娘・李敏と同居していたことから、生涯を通じて中国人民との交流が深かった。

池谷医師のご逝去は、中日両国の医学界の友好交流、中日友好事業、日本僑報社にとって大きな損失となった。

本日のメルマガは、池谷田鶴子先生の追悼特集として、先生が生前に執筆された「北京で見た開国大典のパレードから70年――新中国誕生に立ち会えた9歳の日本人少女」を転載させていただきます。

池谷田鶴子先生のご冥福を祈り申し上げます。

 

段躍中

 

 


【特別転載】「北京で見た開国大典のパレードから70年――新中国誕生に立ち会えた9歳の日本人少女」

■概要

新中国の誕生に関わった日本人の第二世代の一人として、新中国成立70周年を迎えたことを嬉しく思います。

1949年1月、北平(現在の北京)は無血解放となり、私がいた学校は3月に保定市よりトラックで北平に入城し、中国人民解放軍河北軍区政治部八一学校と改名されました。

当時9歳だった私が同年の10月1日に開国大典を見たことは、少女時代のもっとも記憶に残っている出来事のひとつです。

その日、私たち子どもは学校から近い府右街の出口、長安街に面した牌楼のところで、軍と民衆のパレードを見学する機会に恵まれたのでした。

あれから70年の年月が経った今、新中国誕生に立ち会えた瞬間の思い出をここに記すとともに、新中国成立70周年を心からお祝い申し上げます。

 


■全文

日中両国は、よく言われることですが隣国同士であり、仮にお互いが気に食わないといっても引越しができるわけではありません。そのため私たちは、現実を直視し、相互理解を強化していかなければならないと考えます。

 

1938年12月、ともに内科医であった父・津沢勝と母・喜代子は、結婚後すぐに中国の河北省にある張家口に出向となり、私は張家口で生まれました。そして両親は終戦後八路軍の医療に従事したのです。そして両親は終戦後八路軍の医療に従事したのです。

 

八一学校は1947年に八路軍の聶栄臻司令の計らいで、娘の聶力も含め、子ども達の教育を考えて創立された全寮制の学校です。私が入学した時は河北省阜平県易家荘にあり、生徒は百人足らずでした。解放戦線の状況によりあちこちに移動しました。

 

1949年1月に北平は無血解放となり、3月に学校は古賢村を離れ、保定より米国製のトラックで北平に入城しました。

 

北平は「北京」と呼ばれるようになり、私が学んでいた学校も中国人民解放軍河北軍区政治部八一学校と改名されました。

 

解放戦争はまだ進行中でしたが、北京の解放と同時に解放軍の指揮部が入城し、各部隊の指揮者も北京に来ることになりました。その家族や子どもたちも一緒だったので学校の問題が急務となり、学校は全軍制の子弟学校に変わっていきました。その時、同じ学年だけでも劉太行(劉伯承の子)、王兵(王震の子)、羅小青(羅瑞卿の子)、董良浩、董良沢(董必武の子)、葉正光(葉挺の子)などの元帥や将軍の子弟と一緒になりました。当時は親が誰であるといったことはあまり意識しませんでしたし、私の周囲の子どもたちも同じでした。

 

授業のカリキュラムは常に改善が加えられ、教員も優秀な者を招いていました。生活面でも辺校長は子どもたちを喜ばすことを色々と企画し、実現すべく努力をされていました。女性軍人の服もカーキ色であってもワンピースになり、私たちに支給された服も変わりはじめ、1年に3回支給されていました。

 

1949年10月1日(当時9歳)に開国大典を見たことは、もっとも記憶に残っている出来事のひとつです。その日、私たち子どもは学校から近い府右街の出口、長安街に面した牌楼のところで、軍と民衆のパレードを見学する機会に恵まれたのでした。それは人生でなかなかめぐりあえないことであり、同級生の安達兄弟(静岡県立静岡がんセンターの安達勇とその弟安達猛)も行っている筈ですが、他に日本人でこうした経験をしたという話は聞いていません。

 

中華人民共和国の開国大典、この人類史上に残る素晴らしい瞬間を、まさか自分が当事者の一人として見ることができるとは思いもよりませんでした。今でも天安門広場を行進していたパレードの盛大さと人々の興奮の様子が鮮明に脳裏に浮かびます。

 

こうして、新しい中国の誕生を迎えました。


 

翌年からは学校にも共産主義青年団、少年先鋒隊が創立され、メーデーと国慶節は朝早くに起き、紙で作った花を手に持って、天安門広場のパレードに参加しました。

 

4年生の時に同じクラスになった李敏(毛沢東国家主席の長女)とは、5年生になってからは寄宿舎で7ヶ月もの間、隣のベッドで一緒でした。彼女は穏やかで口数の少ない少女でした。後年、会った折には、おばあちゃん同士で色々当時のことを語り合いました。

 

中国で過ごした毎日の生活の中で、私は鍛えられ、育てられました。私が日本人であることに対して気を使っていただき、いじめや嫌がらせはほとんど受けることは無かったのです。早朝と夜に自習時間があり、基礎学力はしっかり身に着いたと思います。

 

宿舎では5年生のときは十数人が一部屋で、6年生になったときは3人が一部屋でした。年齢や性格の異なる者が互いに助けあい、協調することを学びました。土曜日の午後に食堂の前で包子や餃子を包むのは生徒の役割で、それは週一の楽しみでもありました。

 

帰国後、いよいよ生活に困ったときは餃子屋になればよいと本気で考えていました。土曜や日曜の自由時間は西単の新華書店や西単商場や映画館に行ったり、また貸本屋で漫画を借りるのも楽しみの一つだったのです。

 

1952年7月、12歳で小学校を卒業し、学校の推薦で北京師範大学付属女子中学に入学出来ました。レベルの高い学校での授業はすべて新鮮に感じられて、先生方が輝いて見えました。しかし、わずか半年後の1953年4月下旬、私たち一家は天津の近くの塘沽港から高砂丸に乗って日本の舞鶴に帰国したのであります。

 

小学校時代に一緒に寄宿舎で生活した級友たちは今でも格別な親しみがあり、同窓会やクラス会にも数回参加しました。八一学校は習近平国家主席をはじめ、卒業生として優秀な人材を多数輩出しました。

 

2017年3月に八一学校は創立70周年を迎え、私たち日本の卒業生も招待されて式典に参加することが出来ました。この学校は1964年に北京市に移管するまでは解放軍の学校でした。現在は重点学校となり、各種の設備は素晴らしく、教職員も優秀な方々を揃えているようです。私の思い出の寄宿舎は今はもう残っていませんが、ここで学べる子どもたちは幸せだと心から感じます。

 

以上のように、70年前の中華人民共和国成立という歴史的瞬間の思い出をここに記すとともに、新中国成立70周年を心からお祝い申し上げます。

 


■池谷田鶴子先生略歴】

池谷田鶴子(いけやたづこ) 医師、公益財団法人日中医学協会理事

1940年中国張家口にて生まれる。1952年八一学校卒業。翌年4月に日本に帰国後、都立新宿高等学校に入学。1965年順天堂大学医学部卒業、インターン1年。翌年同大学皮膚科学講座入局。1987~2012年非常勤講師を務める。

1975年11月より日中の医学の各分野の交流に参加。1983〜84年稗田憲太郎の遺族として胡耀邦氏に接見。2007年中曽根康弘元首相率いる『日中青年世代友好代表団』に参加し訪中。2011年中国人民解放軍 医学科学技術委員会神経内科専業委員会より『特別貢献賞』及び『終身成就賞』を受賞。

現在は(公財)日中医学協会理事、(公社)日本皮膚科学会功労会員、(一社)日本医真菌学会功労会員。順天堂大学国際交流センター運営委員。

 



■関連書籍のご案内

 『新中国70年の変化と発展』http://duan.jp/item/283.html

 『新中国に貢献した日本人たち』http://duan.jp/item/57.html

 『続 新中国に貢献した日本人たち』http://duan.jp/item/021.html



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